野網摩利子
『言語情報科学』第4号 4(4) 271-281 2006年3月
『細雪』がなぜ過剰性にみちた語り口で語られるのかについて、テクストの動的な構造を分析して、解明する。小説の言葉がみずからの意味にそそのかされ、あたらしく言葉を生誕させる、こういった形式と内容とが相互に誘惑しあう複雑な連関は、なかなか論理的に言えないものだが、それが小説の実態に違いない。本稿は、饒舌な語りのしくみと理由とを明らかにしながら、このような連関作用およびその効果を探る。『細雪』の登場人物の場合、名前を持つ人間だからというだけでは主体といえない。欲望と結託した知が、登場人物のさまつな欠陥を、たえず、説明、解釈、解決しようとして言葉を差し込み、事を大げさにしていくといった連関があってはじめて、欲望を受けて立つ主体や、欲望を追い回す主体ができる。言葉が注がれつづけなければ、この欲望駆り立てシステムは作動せず、欲望の関係式をとっていっきに存在してくる諸主体もまたない。はじめ虚像でしかない主体が、他者の欲望を刺激したり、また、刺激されたりすることで実像になる。その主体成立過程につきしたがうと同時に、刺激の資源ともなっているのが、『細雪』の語りである。それは、欲望を駆動し、体現し、代償する。ゆえに、過剰に行われなければならない。こういった、形式と内容とが入り組みあう小説の力の現実を考察する。