石川 潔
日本物理学会誌 70(7) 530-534 2015年7月5日 査読有り筆頭著者責任著者
ガラス容器内の熱い気体原子を分光する際,容器内壁における原子のスピン状態の緩和が,分光計測の精度や感度を低下させる.そのため,壁で電子や核のスピンダイナミクスを妨げずに原子を反射するような緩和防止膜が研究されている.一方,表面において原子の状態が変化するので,反作用として,衝突相手である壁のスピン状態も変化するはずだ.しかし,壁はマクロな環境であり,その反作用を調べるのは難しい.これまでは,反射した偏極原子の状態を観測し,表面をうかがい知るのみだった.最近,表面膜材料の核磁気共鳴により,原子がスピン偏極を表面に移す現象を発見した.以来,表面におけるスピン偏極の注入を調べ,超偏極物質の生成を試みている.一般に,核磁気共鳴では熱平衡状態にある非常に小さなスピン偏極率の核スピン集団を観測する.その微弱な信号を飛躍的に増大させるため,物質を核スピン偏極させる手法が数多く開発されている.その中でも,光の角運動量を使う方法は低温を必要とせず,熱い物質をスピン偏極できる.光ポンピングの難しい物質には,あらかじめ光でスピン偏極した物質から,スピン相互作用により角運動量を移すことも可能だ.このスピン交換光ポンピングの例として,超偏極希ガスがある.核スピン偏極率が高いので,偏極標的として基礎物理実験に供され,磁気共鳴画像診断の造影剤や磁力計に応用される.本稿では,これに類似の,原子が物体表面に接触したときのスピン偏極の移行を紹介する.レーザー光により希薄な原子気体をスピン偏極し,液体や固体と接触させると,表面をとおし,これら凝縮体がスピン偏極する.圧倒的な数差にも関わらず,凝縮体の核スピン集団が偏極するのは,スピン源となる気体原子集団に,常に光から角運動量が供給されるからである.実験では,電子のゼーマン分裂が原子内のスピン結合(電子と核の超微細相互作用)より大きくなる磁場で,ガラス容器中のセシウム原子を光励起する.スピン偏極原子は,気体中を拡散運動しながら,セシウム塩表面に達し,価電子を放出,イオンになる.表面では,結晶のイオンと入れ替わるか,同種核間のスピン交換で偏極を結晶に移すことにより,角運動量を注入する.数秒間光を照射すれば,セシウム塩にスピン角運動量が蓄積(セシウム核がスピン偏極)するので,その核磁気共鳴信号を観測する.結晶だけでなく,溶融塩やガラスにもスピン注入できる.知る人ぞ知る,とても単純な実験だ.重要な要素は,原子の高磁場光ポンピング,表面におけるスピン偏極注入,物質内のスピン拡散である.残念なことに,原子の偏極電子がスピン注入に関与しない.そのため,異種核へ偏極移行するような汎用性はなく,気体原子と凝縮系イオンは同種核でなければならない.特徴は,スピン注入するので,表面強調の磁気共鳴計測が可能なことである.その結果,表面でも核スピン偏極が長生きすることがわかった.これまで仮定してきた気体に対するスピンの境界条件(壁において熱平衡状態)を見直す必要がある.さらに,角運動量を担うイオン自身が,核スピン偏極を失わずに埋め込まれるのにも驚いた-四重極緩和につながる電子軌道の歪は生じないのか?スピン緩和時間の短い液体の方が,偏極率が高くなる-結晶表面の液体薄膜の存在がスピン注入に重要か?このように,新たな知見が得られるほど,疑問が湧きあがる.結晶中のスピン偏極イオンが角運動量を輸送するので,イオンの移動度の大きな超イオン伝導体を使えば,スピン輸送という応用が期待できる.