井上 直彦, 高橋 美彦, 坂下 玲子, 呉 明里, 野崎 中成, 陳 李文, 亀谷 哲也, 塩野 幸一
人類學雜誌 100(1) 1-29 1992年3月
中華民国(台湾)中央研究院において,中国河南省安陽県殷墟の犠牲坑から出土した398体の頭骨標本の調査を行う機会を得た.侯家荘西北高における,1928年から1937年まで通算15回の発掘による標本の数は,1,000体におよぶものであったというが,当時の中央研究院が戦乱を避けて移動する間に,現在の数にまで減少したという.甲骨文字の解読による史実と,同時に出土した遺物との対照によれば,1,400~1,100BC頃,すなわち殷商時代の後半と推定されている.この標本群は,歴史的な裏付けのある資料としては恐らく最古のものであり,しかも,標本数も大きい点で,古い時代の形質と文化との関わりを知るための資料としてきわめて貴重なものと考えられる.<br>この資料についての過去の研究の中でとくに関心がもたれた重要な課題は,殷商王朝の創建者はどのような人種であったのかという点であるという(楊,1985b).すなわち,本来の中国人というべきものがすでに存在していたのか,東夷あるいは西戎であったのか,また,単一民族であったのか,あるいは楊が指摘したように数種の異民族を包括して統治していたものかなどである(Fig.1~Fig.3).もし,複数民族の存在が事実であるならば,それは,同一の時間,同一の空間に異民族が共存していたという比較的まれな例であるということができる.本研究は,長年にわたる人種論争にあえて参加する立場はとらず,各群が,群として認められるに足りる形態学的な根拠をもっかどうかを検討し,さらに文化の影響としての歯科疾患が,同じ生活圏に存在したと考えられる異なる民族群においてどのように分布するかを知り,著者らがすでに指摘した形質と文化との独立性をさらに確かめることを目的とした.