研究者業績

佐藤 裕之

サトウ ヒロユキ  (Satou Hiroyuki)

基本情報

所属
武蔵野大学 通信教育部 人間科学部 教授
学位
修士(東京大学大学院)
文学博士(東京大学大学院)

J-GLOBAL ID
201701000017529162
researchmap会員ID
B000270823

研究キーワード

 2

委員歴

 3

受賞

 1

論文

 15
  • 佐藤 裕之
    武蔵野大学仏教文化研究所紀要 35 2019年3月  
  • 佐藤 裕之
    武蔵野大学人間科学研究所年報 2 39-52 2012年3月  
  • 佐藤 裕之
    『松濤誠達先生古希記念 梵文学研究論集』 483-496 2007年2月  
  • 印度学仏教学研究 47-1 6 1998年12月  
    解脱は、仏教も含めたインドで<悲しみの滅(あるいは、苦しみの無)>と定義されることが一般的であるが、アドヴァイタ学派では<喜び(楽)の獲得>も定義と考える。ここには<悲しみの滅>は<喜び>と同じなのか異なるのかという問題があるが、定義の方法・目的の観点からは、前者の定義は全く否定されず、後者の定義は仏教等において否定されるから、前者を「報告的定義」、後者を「規約的定義」と解釈することができる。
  • 印度学仏教学研究 45-2 5 1997年3月  
    インドで知覚はさまざまに異なって定義されるが、その定義方法の相違をさぐった。定義方法には、「語義解釈による定義」と「発生原因を述べる定義」があったが、知覚の定義の相違は語義解釈が定義になるか否かの問題に関係している。さらに「否定的表現による定義」もあるが、それには一定の前提が必須であり、無条件に許されるものではない。知覚の場合には、定義方法の相違が定義の相違を生み出す一つの理由である。
  • 東方 12 14 1996年12月  
    サルヴァジュニャートマンは8世紀に活躍したアドヴァイタ学派の哲学者である。彼は「定義」に「本質的定義」と「限定的定義」と「偶有的定義」の三種類を認め、「定義の目的」は本質を述べるためでもなく、語の使用根拠を述べるためでもなく、被定義項と非被定義項の区別を述べるためであるとする。彼の「定義理論」は、背景にアドヴァイタ学派の特殊性もあるが、インド哲学のみならず哲学として極めて重要である。
  • 仏教学 38 19 1996年12月  
    インドにはわれわれは迷っているという世界観・人生観があり、その根本原因に無知(avidya 、無明)を立てる。この世界観・人生観が正しいなら、無知は存在するはずであり、それを知る方法もあるはずである。こう考えて、アドヴァイタ学派は無知を知る方法を問題にした。「無知を知る」という矛盾を含んだ問題だけに、主張される方法は直観というものだが、この問題への取り組みがアドヴァイタ学派の認識論形成のきっかけになった。
  • 印度学仏教学研究 44-2 5 1996年3月  
    アドヴァイタ学派の認識論の特殊性に注目し、認識の因果論を他学派との比較を通して論じた。インドでは認識を直接的認識と間接的認識に大別するが、認識の因果論とはこれらの認識とその区別を生み出すものとの関係である。一般に認識を成立させるもの(認識手段)と認識の関係を考えるが、アドヴァイタ学派は認識対象と認識の関係を考える。従って、この学派の認識論は認識対象に重要な役割を与えていることになる。
  • 比較思想研究 22 7 1996年3月  
    「定義」の「最近類+種差」という定式、「定義は本質を述べる」というテーゼ、および「定義可能性」という西洋哲学の問題をインド哲学との比較で論じた。インドにも「同類と異類を排除するもの」という定式があり類似しているが、基本的発想には相違が見られ、テーゼはインドにとって二次的な意味での「定義」にすぎない。さらに西洋では定義不可能なものを認めるが、インドでは全てのものが定義可能であると考えている。
  • インド思想史研究 7 12 1995年3月  
    アドヴァイタ学派の認識論は17世紀のダルマラージャが著した『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』によって本格的に体系化され、認識論的術語に定義が与えられた。その形成にいたるまで歴史を検討した結果、この学派は認識論に関心が薄かったわけではなく、認識論の形成を阻む特異な形而上学上の問題があり、ダルマラージャはそれらの問題を解決し認識論を形成した。この点こそが彼の最も評価すべき点である。
  • 印度学仏教学研究 43-2 4 1995年3月  
    svarupalaksana とは「本質的特徴を述べる定義」、tatasthalaksana とは「偶有的特徴を述べる定義」であり、この二つはインドにおける「定義」の貴重な分類である。このように分類するのはアドヴァイタ学派に特有な考えであるが、それは「定義」の目的を被定義項の理解ではなく、被定義項への語の適用と考えていたことに関係する。svarupalaksana は対象を理解するための「定義」でもあるが、tatasthalaksana はそうではない。
  • 仏教文化 (学術増刊号8) 32.33(増刊号8) 27 1995年2月  
    哲学における「定義」の重要性に注目し、インドにおける「定義」の定義を文献に基づいて考察した。一般に「定義」は適用範囲が狭すぎず、広すぎない特徴と考えられる。インドにもこの発想が窺えるが、広すぎない限りでの特徴も「定義」とする場合がある。むしろインドでは、広すぎない限りでの特徴が一次的な意味での本来の「定義」であって、狭すぎず、広すぎない特徴は二次的な意味での特殊な「定義」になる。
  • 印度学仏教学研究 39-2 3 1991年3月  
    サンスクリット語の“jnana”は認識を意味し、サーンキヤ、ヨーガ、ヴェーダーンタ学派の形而上学ではアートマンの本質である。アートマンには生起も消滅もないから、その本質である認識も同じことになる。しかし日常レベルで経験される認識には生起も消滅もあるから、これらの学派では日常的な認識を“jnana”と呼ばず、作用を意味する“vrtti”という語で呼び区別した。これらの学派における認識論の用語の特色はここにある。
  • 宗教研究 283 2 1990年3月  
    自己光照は13世紀のチトスカによって「他によって知られず、直接的に言語表現されること」と定義された。ヴィジュニャーナビクシュはヴェーダーンタ学派内にあって、彼の定義を何らウパニシャッドに裏付けされていないと批判した。自己光照の理論は、アートマンの認識を説明するためのもので、ヴィジュニャーナビクシュはそれを相互投影説で説明するから、相互投影説を主張する以上、自己光照は認められないことになる。
  • 印度学仏教学研究 37-2 3 1989年3月  
    相互投影説は16世紀にインドで活躍した Vijnanabhiksu が主張するアートマンの認識方法に関する理論で、認識主体であるアートマンが自己を対象化するために、心に自己を映し、その心がさらアートマンに影を映すという考えである。アートマンは認識の生起には認識主体という形で関わるが、アートマンがアートマン自身を知覚するなら、自己が主体であり対象であることになってしまう。この難点を解決するための理論である。

MISC

 7
  • 松濤誠達先生古稀記念編集「梵文学研究論集」 14 2007年2月  
    解脱は人生の最高の目的であるとされるが、「苦しみの消滅」とだけ定義されるものではなく、アドヴァイタ学派では「楽の獲得」でもあると定義される。その場合の楽とは決して相対的・世俗的な楽ではなく、絶対的な楽である。そして解脱は常住であるが故に、始まりはなく、既に解脱していることになる。仏教を含めたインド哲学において、真理を知ることによって解脱が獲得される、と言われるが、その真理とは、結局のところ法(ダルマ)やブラフマンというよりも、「すでに解脱しているこである」という捉え方も可能になる。
  • 中世インドの学際的研究 平成14~16年度科学研究費補助金〔基盤研究(A)(2)〕研究成果報告書 11 2005年3月  
    avidyaはシャンカラ(Sankara、8世紀)の時代からさまざまに説明され、最終的には定義という方法によって説明されるが、それ以外の方法によっても説明されてきた。maya,mithyavabhasa,vibhramaなどの「同義語による説明」、klesa、dosa、vyavadhana、anarthaなどの「包摂概念による説明」、anadi、naisargika、anirvacaniiya、bhavarupa、jadaなどの「性質による説明」などがある。avidyaの定義は一つではないが、そこには方法の違いもある。
  • 江島惠教博士追悼論集 空と実在 14 2000年11月  
    ダルマラージャ(17c.)は『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』の中で pratyaksa を扱っているが、内容は複雑で、その基本構造すらも容易に把握できない。本論はそれを象徴的に示している文章を解釈し、 pratyaksa論の基本構造を解明するものである。最も重要なのは“pratyaksaprama”という語は二つの意味を持ち、純粋精神と定義される pratyaksaprama には pratyaksa anumiti等の認識が属する点である。この考えは認識を<本質的面>と<対象に関わる面>で捉える方法によって支えられる。認識が pratyaksaprama とされるのは<本質的面>で捉えた場合であり、<対象に関わる面>で捉えれば、 pratyaksa anumiti 等は定義によってそれぞれ区別される。この二面性に対応して pratyaksa 論の基本構造も二面性・二重性をもち、一面だけで捉えようとすれば、ダルマラージャの pratyaksa 論は決して理解できない。
  • The Way to Liberation - Indological Studies in Japan, India 13 2000年  

書籍等出版物

 5
  • 武蔵野大学出版会 2016年8月
  • (担当:共著)
    パイ インターナショナル 2012年5月 (ISBN: 9784756240927)
  • (担当:共著)
    武蔵野大学出版会 2009年1月
    平成21年1月8日第四章「仏教思想における人間形成-煩悩論の観点から」を執筆。心理学では「発達」として人間形成の問題が論じられるが、仏教思想でそれが論じられることはほとんどない。本論文では、煩悩の生起と消滅という点から仏教思想における人間形成の問題を論じた。根源的な煩悩である無明があり、成長するに伴い、無明を原因としてそれ以外の煩悩が生じてくる。そして、最後には原因である無明がなくなり、他の煩悩だけが残る。これらの点を心理学の「欲望」と比較して論じた。 田中教照[編・著]田中教照、山崎龍明、陳継東、佐藤裕之、高橋審也、石上和敬、田中ケネス、西本照真、村石恵照 (総頁数頁236中、P77~P97を担当)
  • 角川書店 2005年5月
    上記「仏教(自己を見つめる)」の市販本
  • 山喜房仏書林 2005年3月
    本書は、17世紀に活躍したとされるアドヴァイタ学派のダルマラージャ(Dharmaraja)が著した『ヴェーダーンタ・パリバーシャー(Vedantaparibhasa)』の研究である。第1部では、ダルマラージャの認識論の構造を解明し、第2部は『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』知覚章の訳注研究である。訳出にあたっては、底本とした S.S.Suryanarayana Sastri 本以外の13の公刊本を参照し、異読を示し、語索引と定義・分類索引を付した。

講演・口頭発表等

 10
  • 日本印度学仏教学会 1998年9月
    解脱は、仏教も含めたインドで<悲しみの滅(あるいは、苦しみの無)>と定義されることが一般的であるが、アドヴァイタ学派では<喜び(楽)の獲得>も定義と考える。ここには<悲しみの滅>は<喜び>と同じなのか異なるのかという問題があるが、定義の方法・目的の観点からは、前者の定義は全く否定されず、後者の定義は仏教等において否定されるから、前者を「報告的定義」、後者を「規約的定義」と解釈することができる。
  • 日本印度学仏教学会 1996年9月
    インドで知覚はさまざまに異なって定義されるが、その定義方法の相違をさぐった。定義方法には、「語義解釈による定義」と「発生原因を述べる定義」があったが、知覚の定義の相違は語義解釈が定義になるか否かの問題に関係している。さらに「否定的表現による定義」もあるが、それには一定の前提が必須であり、無条件に許されるものではない。知覚の場合には、定義方法の相違が定義の相違を生み出す一つの理由である。
  • 仏教思想学会 1996年6月
    インドにはわれわれは迷っているという世界観・人生観があり、その根本原因に無知(avidya、無明)を立てる。この世界観・人生観が正しいなら、無知は存在するはずであり、それを知る方法もあるはずである。こう考えて、アドヴァイタ学派は無知を知る方法を問題にした。「無知を知る」という矛盾を含んだ問題だけに、主張される方法は直観というものだが、この問題への取り組みがアドヴァイタ学派の認識論形成のきっかけになった。
  • 比較思想学会 1995年10月
    「定義」の「最近類+種差」という定式、「定義は本質を述べる」というテーゼ、および「定義可能性」という西洋哲学の問題をインド哲学との比較で論じた。インドにも「同類と異類を排除するもの」という定式があり類似しているが、基本的発想には相違が見られ、テーゼはインドにとって二次的な意味での「定義」にすぎない。さらに西洋では定義不可能なものを認めるが、インドでは全てのものが定義可能であると考えている。
  • 日本印度学仏教学会 1995年6月
    アドヴァイタ学派の認識論の特殊性に注目し、認識の因果論を他学派との比較を通して発表した。インドでは認識を直接的認識と間接的認識に大別するが、認識の因果論とはこれらの認識とその区別を生み出すものとの関係である。インドでは一般に認識を成立させるもの(認識手段)と認識の関係を考えるが、アドヴァイタ学派は認識対象と認識の関係を考える。従って、この学派の認識論は認識対象に重要な役割を与えていることになる。