研究者業績

佐藤 裕之

サトウ ヒロユキ  (Satou Hiroyuki)

基本情報

所属
武蔵野大学 通信教育部 人間科学部 教授
学位
修士(東京大学大学院)
文学博士(東京大学大学院)

J-GLOBAL ID
201701000017529162
researchmap会員ID
B000270823

研究キーワード

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委員歴

 3

受賞

 1

論文

 15

MISC

 7
  • 松濤誠達先生古稀記念編集「梵文学研究論集」 14 2007年2月  
    解脱は人生の最高の目的であるとされるが、「苦しみの消滅」とだけ定義されるものではなく、アドヴァイタ学派では「楽の獲得」でもあると定義される。その場合の楽とは決して相対的・世俗的な楽ではなく、絶対的な楽である。そして解脱は常住であるが故に、始まりはなく、既に解脱していることになる。仏教を含めたインド哲学において、真理を知ることによって解脱が獲得される、と言われるが、その真理とは、結局のところ法(ダルマ)やブラフマンというよりも、「すでに解脱しているこである」という捉え方も可能になる。
  • 中世インドの学際的研究 平成14~16年度科学研究費補助金〔基盤研究(A)(2)〕研究成果報告書 11 2005年3月  
    avidyaはシャンカラ(Sankara、8世紀)の時代からさまざまに説明され、最終的には定義という方法によって説明されるが、それ以外の方法によっても説明されてきた。maya,mithyavabhasa,vibhramaなどの「同義語による説明」、klesa、dosa、vyavadhana、anarthaなどの「包摂概念による説明」、anadi、naisargika、anirvacaniiya、bhavarupa、jadaなどの「性質による説明」などがある。avidyaの定義は一つではないが、そこには方法の違いもある。
  • 江島惠教博士追悼論集 空と実在 14 2000年11月  
    ダルマラージャ(17c.)は『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』の中で pratyaksa を扱っているが、内容は複雑で、その基本構造すらも容易に把握できない。本論はそれを象徴的に示している文章を解釈し、 pratyaksa論の基本構造を解明するものである。最も重要なのは“pratyaksaprama”という語は二つの意味を持ち、純粋精神と定義される pratyaksaprama には pratyaksa anumiti等の認識が属する点である。この考えは認識を<本質的面>と<対象に関わる面>で捉える方法によって支えられる。認識が pratyaksaprama とされるのは<本質的面>で捉えた場合であり、<対象に関わる面>で捉えれば、 pratyaksa anumiti 等は定義によってそれぞれ区別される。この二面性に対応して pratyaksa 論の基本構造も二面性・二重性をもち、一面だけで捉えようとすれば、ダルマラージャの pratyaksa 論は決して理解できない。
  • The Way to Liberation - Indological Studies in Japan, India 13 2000年  
  • 仏教文化 34 11 1995年12月  
    人間を例にして、定義に関わるさまざまな問題検討した。アリストテレスは人間を「理性的動物」と定義したが、問題がある。生れたばかりの人間に理性は認められないから適用範囲が狭すぎるし、潜在している理性であると解釈しても、その顕現は人間であることをすでに前提にしている。さらに理性的なものは動物に限られるから「理性的動物」という表現は簡潔性を欠く。
  • 前田専学博士還暦記念論集「我の思想」 12 1991年10月  
    svaprakasa(自己光照)はアートマンの認識をめぐって主張された理論である。光は闇を照らすと同時に光自身も照らし光を照らすために別の光を必要としないように、アートマンを認識するためには他の手段を必要としないという理論である。チトスカ(13世紀頃)は『タットヴァ・プラディーピカー』の中でこの svaprakasa の定義を検討し、最終的に「他によって知られず、直接的に言語表現されること」という定義を与えた。

書籍等出版物

 5
  • 武蔵野大学出版会 2016年8月
  • (担当:共著)
    パイ インターナショナル 2012年5月 (ISBN: 9784756240927)
  • (担当:共著)
    武蔵野大学出版会 2009年1月
    平成21年1月8日第四章「仏教思想における人間形成-煩悩論の観点から」を執筆。心理学では「発達」として人間形成の問題が論じられるが、仏教思想でそれが論じられることはほとんどない。本論文では、煩悩の生起と消滅という点から仏教思想における人間形成の問題を論じた。根源的な煩悩である無明があり、成長するに伴い、無明を原因としてそれ以外の煩悩が生じてくる。そして、最後には原因である無明がなくなり、他の煩悩だけが残る。これらの点を心理学の「欲望」と比較して論じた。 田中教照[編・著]田中教照、山崎龍明、陳継東、佐藤裕之、高橋審也、石上和敬、田中ケネス、西本照真、村石恵照 (総頁数頁236中、P77~P97を担当)
  • 角川書店 2005年5月
    上記「仏教(自己を見つめる)」の市販本
  • 山喜房仏書林 2005年3月
    本書は、17世紀に活躍したとされるアドヴァイタ学派のダルマラージャ(Dharmaraja)が著した『ヴェーダーンタ・パリバーシャー(Vedantaparibhasa)』の研究である。第1部では、ダルマラージャの認識論の構造を解明し、第2部は『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』知覚章の訳注研究である。訳出にあたっては、底本とした S.S.Suryanarayana Sastri 本以外の13の公刊本を参照し、異読を示し、語索引と定義・分類索引を付した。

講演・口頭発表等

 10
  • 日本印度学仏教学会 1998年9月
    解脱は、仏教も含めたインドで<悲しみの滅(あるいは、苦しみの無)>と定義されることが一般的であるが、アドヴァイタ学派では<喜び(楽)の獲得>も定義と考える。ここには<悲しみの滅>は<喜び>と同じなのか異なるのかという問題があるが、定義の方法・目的の観点からは、前者の定義は全く否定されず、後者の定義は仏教等において否定されるから、前者を「報告的定義」、後者を「規約的定義」と解釈することができる。
  • 日本印度学仏教学会 1996年9月
    インドで知覚はさまざまに異なって定義されるが、その定義方法の相違をさぐった。定義方法には、「語義解釈による定義」と「発生原因を述べる定義」があったが、知覚の定義の相違は語義解釈が定義になるか否かの問題に関係している。さらに「否定的表現による定義」もあるが、それには一定の前提が必須であり、無条件に許されるものではない。知覚の場合には、定義方法の相違が定義の相違を生み出す一つの理由である。
  • 仏教思想学会 1996年6月
    インドにはわれわれは迷っているという世界観・人生観があり、その根本原因に無知(avidya、無明)を立てる。この世界観・人生観が正しいなら、無知は存在するはずであり、それを知る方法もあるはずである。こう考えて、アドヴァイタ学派は無知を知る方法を問題にした。「無知を知る」という矛盾を含んだ問題だけに、主張される方法は直観というものだが、この問題への取り組みがアドヴァイタ学派の認識論形成のきっかけになった。
  • 比較思想学会 1995年10月
    「定義」の「最近類+種差」という定式、「定義は本質を述べる」というテーゼ、および「定義可能性」という西洋哲学の問題をインド哲学との比較で論じた。インドにも「同類と異類を排除するもの」という定式があり類似しているが、基本的発想には相違が見られ、テーゼはインドにとって二次的な意味での「定義」にすぎない。さらに西洋では定義不可能なものを認めるが、インドでは全てのものが定義可能であると考えている。
  • 日本印度学仏教学会 1995年6月
    アドヴァイタ学派の認識論の特殊性に注目し、認識の因果論を他学派との比較を通して発表した。インドでは認識を直接的認識と間接的認識に大別するが、認識の因果論とはこれらの認識とその区別を生み出すものとの関係である。インドでは一般に認識を成立させるもの(認識手段)と認識の関係を考えるが、アドヴァイタ学派は認識対象と認識の関係を考える。従って、この学派の認識論は認識対象に重要な役割を与えていることになる。