小田 宏信
経済地理学年報 51(5) 443-464 2005年12月 査読有り
Sable and Piore(1984)によって提起された柔軟な専門化仮説は,レギュラシオン学派を媒介として,Scott (1988)をはじめとして,経済地理学に大きな影響をもたらしてきた.一連の議論に従えば,その仮説は,1970年代の経済危機を「産業分水嶺」として,それまでフォーディスト企業が牽引してきた少品種大量生産が後退し,新しい産業地域の形成を伴った柔軟な生産が卓越してきたというものである.もちろん,このようなパラダイムシフトには多くの懐疑的な批判論文が寄せられてきた.しかし,こうした議論を日本の産業上の経験に擦り合わせようとした論考はほとんどなされていない.このようなテーマに対して多少なりとも手がかりをあたえてくれるのは,Freedman (1988)とHumphrys(1995)である.Freedmanは,日本の経済発展の原因を官僚主導の経済政策に帰した従来の観点に対して,中小企業のネットワークの力強さを経済発展のもう一つの源泉ととらえ,その経験的な実例を長野県坂城町に見出した.一方,Humphrysは,近接性に基づく関係特殊な取引を日本の競争力の基礎とみなした.筆者は,他の先進工業国に比べて,日本の生産システムが卓越した局地的集積に特徴付けられることに対しては異論がない.そして,そうしたロカリティにおける中小企業のパフォーマンスも,大手企業とそのサプライヤーの関係特殊性も同様に重要であった.こうした議論になんらかの問題を提起するものがあるとすれば,以下の通りであろう.第1には,日本の製造業もフォードシステムの洗礼を受けているということである.もし,フォード生産システムが分散的な立地システムを求めたとすれば,それは局地集中的な生産システムとどのように折り合いをつけてきたのであろうか.他方で,日本はフォードのような大量生産ではなく,トヨタシステムのような中量生産を獲得してきたのだという考え方も成り立つ.もし後者が妥当であるならば,第2には,そのような中量生産を日本がいつ,どのように構想したのであろうか.こうした疑問に応えるためには,日本の生産システムの歴史地理を振り返ってみる必要がある.こうした問題を考察すべく,本稿は,次のような構成で成り立っている.2章では,マーシャルの著作における大規模生産の地理的組織化について,簡単なスケッチを得る.マーシャルは,「相互の知識と信頼」を基礎においた産業地域の重要性を論じるだけではなく,ヨーロッパに忍び寄るアメリカン・システムの影響をとらえていた.3章では,マーシャルの時代の日本における川口鋳物と名古屋時計の2つの典型的な産業地域をみる.この時代の日本でも,建設的協同が育まれる一方で,アメリカン・システムの浸透がはじまろうとしていた.4章は,日本へのフォードシステムの受容を考察するために,大河内正敏,松下幸之助,そして豊田喜一郎という3人の先覚者に焦点をあてた.彼らは,フォードの著作に影響を受けつつも,それを日本の状況に適合したシステムに改良しようとしていた.5章では,戦後に本格的に発展した大量生産システムに埋め込まれたマーシャル流のシステムが描き出される.6章では,1990年代におけるネオ・マーシャル的な取引関係の顕在化が述べられる.日本においてフォード的な原理と,マーシャル的な原理は,決して二者択一的なものではなかった.むしろ,日本の大量生産は,その最初の時期より,中量生産を念頭に置き,フォード的な生産方式にマーシャル的な原理を内包したものであった.そのような産業発展の構図は1940年代には生じており,1960〜70年代に開花し,1980年代まで持続した.以後に大きな転機があるとすれば,1990年代に日本の製造業がアジアとの競争にさらされて以降である.今日,日本の製造業には,長期継続的な取引関係に裏打ちされた「相互の知識と信頼」のみならず,新たな「相互の知識と信頼」の形成を促す社会関係資本の構築が求められている.